『中国人与日本人之面子谈』 姜丽萍(北京语言大学)
発行:2010年 民俗拾零
难易度:★★★☆☆
资料收集度:★☆☆☆☆
理解度:★★★☆☆
个人评价:★★★★☆
页数:4页
【这本书的主题】(この本のテーマ)
比较日本人的面子和中国人的面子,探索相同之处和不同的差异。
日本人の面子と中国人の面子を比較して、その同じところと違うところを考察する。
【关键词】(キーワード)
面子,面子尊严,人格尊严,耻辱感,名誉,西方人的双赢,东方人的和谐,
【目次】
《面子尊严和人格尊严》
《中日面子比较》
《中日面子共同点,不同点》
《面子的影响》
<面子尊厳と人格尊厳>
<日中面子比較>
<日中面子の共通点と相違点>
<面子の影響>
【摘要】
中国人很注重自己的面子,这一点所周知的。本论文比较中日面子的概念探索相同之处和不同的差异。
爱面子就是不重事实,只重形式的做戏态度。面子是一种角色期待,特别是自我的角色期待的满足,能够以某种方式满足自我的角色期待,就是有面子。
日语里面也有“面子”这个词,不过中国的面子比日语中的这些词包含更强烈的意思。
《面子尊严和人格尊严》
面子是关于人的尊严的词语,不过“面子”尊严和“人格”尊严是有很大区别的。
面子尊严之追求外在的表面效果,缺乏内在的人格力量为依据,并更多地是建立在“自我尊重”的基础上。不过,人格尊严讲究主观效果和客观品质的一致性,主要建立在“他人尊重”。
中国人的大多数的面子是外在面子,即具有比较高的外在尊严,比较低的内在尊严。日本人则表现出比较低的外在尊严。比如说,日本人常常把“对不起”挂在嘴上,但中国人则犯错了也不肯轻易认错。破产企业的记者会议上,日本的经营者可能会当众痛哭流涕,但对于中国人来说,
那绝对是过于丢面子的行为。中国人不愿意在众人面前承认自己的错误,而有时候转嫁责任。
明恩薄说;中国人有一种激烈的戏剧本能,也就是说,上台便有了面子,而下台了便失了面子。
易中天也指从人生如戏的角度来分析中国人的面子。
中国人的面子指个体再其社会交往圈内所展示的形象类型及其程度,这种类型及其程度受儒家道德和日常礼仪标准的检验。面子的背后有礼的因素。
面子的因素可以分几种类。太好面子就变成了一种形式和仪式。然后,面子还规定着上下尊卑的关系和行为方式。还有人认为这是受虚荣心的支使。
《中日面子比较》
但是日本人的面子是紧紧与耻辱感联系在一起的。而且那个耻的范围是相当广泛的。因为日本人对自己的名誉是相当敏感并竭力维护的。因此在日本,不能过于直接地否定别人的意见,不能当面过多地说别人专业上的失误,这是一般的礼节,也是一种明智。就是说,要注意自己的面子也要注意别人的面子。
日本人也受到儒家礼教影响。重“礼”的背后隐藏的是“耻辱感”,中国人在这方面的耻感则要弱得多。
《中日面子共同点,不同点》
由此,中国人讲究面子来自于视人生如戏的生活态度及对“礼”的关注。日本人讲面子则来自于其耻感文化和名誉的关注。
共同点之一在于,两个民族都深受中国儒家重视礼教的思想影响,在社会生活中存在着各种各样的遵守的行为规范。
共同点二——两个民族都有很强的集体意识,因为面子是给同一集团中的其他人看的,如果不需要面对别人,面子就失去了意义。
在中国,有面子就是得到众人的肯定。中国的成功似乎存在于旁人的评价之中。
而对于日本社会,任何人都十分注意社会对自己行动的评价。因此日本在做出行为判断时,常常会过分在意别人的眼光和评论而磨灭了自我。在这一点上,中国人比日本人稍微更强调自我一点。
不过总的说来,中国人与日本人同样缺乏心理独立性,缺乏独立的价值操守。
另外在这个问题上,“集体”这词语的心中范围日本人的比中国人的广义得多。所以在日本人人都是彬彬有礼,行动小心翼翼,惟恐给别人添什么麻烦。即使好朋友之间,也是很有礼貌。
不过,在中国,似乎人们在自己生活的小圈子里,要更加讲究面子,在公共场所,面子就不是那么重要的事了。所以中国人的面子只是给熟人看的,在这个圈子里面,面子价值连城,可是到了陌生的地方,面子就不怎么重要。
还有,中国人觉得有面子的事情的范围比日本人的大;日本人觉得没面子的事的范围比中国人大,可能这是由于日本人更关注耻辱。另外,中国人的面子与私人财富的关系比日本人更密切。
这可能与中日两国不同的社会收入情况有关。日本人在二战后,整个社会一切平等同一,生活水平比较高,收入差距是不大的。相比较之下,中国的经济还相对落后,人们的购买能力也不太高。大家都渴望拥有更好的生活。经济好一点儿的人相应地便会产生优越感,也就是会觉得有面子。
《面子的影响》
积极的方面看,对于个人,面子可以成为努力的原动力和自我约束、自我激励的内在机制。在人际关系当中,由于交往双方对于对方面子的维护,人与人之间更能互相礼让、互相尊重。
在这一点上,中国人和日本人是相同的。
东方人与西方人做一下比较。西方人崇尚竞争,追求“双赢”的关系。而东方人讲究和气,其实在商场上也相信和和气气地赚钱,信守成功的秘诀就是互不失“面子”以“和为贵”为原则。
在这一点上,日本人比中国人更加做到了极致。中国人从小接受的就是要表里如一。所以如果自己感到不满意的话,比较直接的说出来。但是日本人,即使觉得非常不满意,也决不会当面提出反对意见,而是表面上先表示赞同,以后再通过比较柔和的方式解决问题。在这一点上,外国人可能会觉得日本人很虚伪,但在他们社会团体的内部,这是约定俗成的一种礼仪规范。一定程度上这确实也维持了和谐的人际关系和气氛。
过分重面子也有负面。上述的方式容易使外国人误会他们真正要表达的意思,会使外国人气愤和不解,这是一个不利于双方互相理解的消极因素。
松本一男指出;中国人经常会为了维护面子而坚持错误,也会不惜牺牲实际利益来换取形式上的面子。对中国人来说,不管出了什么问题,保全面子是最重要的,而不是找出问题的原因和对策。
过分在乎“面子”已经会变得滞重,不和谐,甚至会阻碍我们前进的脚步,放下面子,更关注里子,对中国和每个中国人来说都是一个很重要的问题。
【概要】
中国人は自分の面子をとても重要視する、というのは広く知られていることである。
この論文では、日中の面子の概念を比較し、似ているところと違うところを考察する。
面子を重視することとは、事実を重視せず、形式を重んじる芝居的態度である。
面子とは一種の役割期待であり、特に自分の役割期待に対する期待であり、何らかの方法で自分の役割期待を満足させることができれば、面子がある。ということである。
日本語の中にも「面子」という言葉はあるが、中国の面子のほうが、日本のものよりもより深い意味を持っている。
《面子尊厳と人格尊厳》
面子は人間の尊厳にかかわる言葉であるが、「面子尊厳」と「人格尊厳」には大きな区別がある。
面子尊厳は、外側のうわべの効果であり、内在する人格の力量や根拠にかけており、「自我尊重」の上に成り立っている。それに対し、人格村長は主観的効果と客観的品質が一致しており、「他人尊重」の上に成り立っている。中国人の多くの人の面子は、外在の面子であり、高いうわべの尊厳と、低い内在的尊厳である。日本人は、うわべの尊厳も比較的あまりあらわに表現しない。たとえば、日本人はすぐに「すみません」という言葉を言うが、中国人は間違いを犯しても、簡単には自分が間違えたとは認めない。破産した企業の記者会見で、日本の経営者は人々の前で涙を流しつらそうな表情をするが、中国人からすると、それは絶対「面子を失う」行為である。中国人は大勢の人の前で自分の間違いを認めたがらず、他人に責任転嫁をすることすらある。
明恩薄は、中国人は強い芝居本能を持っており、舞台に上がれば「面子」があり、舞台から降りれば面子がなくなる。易中天も、人生を劇に例えて面子を分析した。
中国人の面子は、個人がその社会の交流グループ内で他人に見せるイメージのタイプおよび程度であり、そのタイプや程度は儒教道徳と日常礼儀の基準によって評価される。面子の背景には「礼」の要素がある。
面子の要素は何種類かに分けられる。面子を重んじすぎるとそれは一種の形式と儀式になってしまう。また、面子は上下の関係や行為の方法を規定する。ある人はこれを虚栄心によるものだという。
《日中の面子比較》
日本人の面子は「恥の感覚」と強い関係がある。その「恥」の範囲はとても広い。日本人は自分の名用に対して敏感であり、努力してそれを維持しようとするため、日本では、直接的に他人の意見を否定しすぎることはできない。その人の専門分野においての間違いを指摘しすぎてはいけない。それは一般的な礼節であり、一種のかしこさでもある。自分の面子に注意すると同時に、他人の面子にも注意しなくてはならない。日本人も儒教の影響を受けているが、礼を重んじる背景には、「恥」の文化が存在しており、中国人は、その方面の「恥」の感覚が日本人よりもずっと弱い。
《日中面子の共通点,相違点》
このことにより、中国人が面子を語るときは、人生を芝居に例えた生活態度と「礼」に関心を払う。日本人が面子を語るときには、恥の文化と名誉に関心を払う。
共通点の一つ目として、どちらの民族も儒教の礼を重んじる思想の影響を深く受けていることであり、社会生活の中のさまざまな行動規範のなかに存在している。
共通点の二つ目として、どちらの民族も強い集団意識がある。という点である。面子とは一つのグループの中でほかの人に見せるものであり、他人の存在がなければ、面子の意義は失われてしまう。
中国では、面子があるということは、周囲の肯定を得るということであり、中国の成功は、ほとんど周りの人の評価の中にある。しかし、日本社会においては、どのような人であれ、社会が自分に対する評価に対して十分に注意している。なので、日本人が行為の判断を行うとき、よくほかの人の目を気にしすぎてしまい、精神を消耗してしまう。この点において、中国人は日本人よりも少し自我的であるといえる。しかし、まとめると、中国人と日本人は同様に心理的な独立性に欠けており、独立した価値基準に欠けている。
この問題についてもう一つ、「集団」という言葉の心の中の範囲が日本人は中国人のそれよりも比較的に広い。だから日本人は多くの人が礼儀正しく、心遣いが行き届き、たとえ仲の良い友達との間であっても、礼儀正しく、他人に迷惑をかけることをいやがるのである。
しかし、中国では、人々は自分の生活の範囲の中で、より面子を語り、公共の場所では面子はそんなに重要ではなくなる。だから、中国人の面子は知っている人の間だけであらわれ、その範囲の中では面子はとても価値があるものだが、知らないところへ行くと、面子はそんなに大事ではなくなる。
そして、中国人は「面子がある」ことの範囲が日本人よりも広い。日本人は「面子がない」事の範囲が中国人よりも広い。これはきっと、日本人がより「恥」を重んじるからである。ほかにも、中国人の面子は個人の財産との関係が日本人よりも緊密である。これは日中両国の異なる社会の収入状況が関係していると考えられる。日本人は第二次世界大戦後、社会は平等に向かい、生活水準は比較的高く、収入の差がそんなに大きくなかった。それに比べて、中国の経済はまだ後れを取っており、人々の購買能力もそんなに高くない。人々はみな、より良い生活を求めている。
経済的に余裕がある人は、優越感を感じ、それがつまり「面子がある」ということである。
《面子の影響》
良い面としては、個人において、面子は努力する原動力となり、自分との約束となり、自分を励ます内在するシステムとなる。人間関係においては、お互いの面子を守ろうとして、お互いに譲り合い、お互いを尊重することができる。この点においては、中国人も日本人も似ている。
東洋人と西洋人を比較してみると、西洋人は、競争主義であり、ウィンウィンな関係を求める。それに対して東洋人は、和を尊重し、ビジネスにおいてでも、調和を保ちながらお金を稼ぐ。
信用を得る秘訣として、お互いの面子を失わずに、和をもって貴しとなす。を原則とすることである。この点において、日本人は中国人よりもより極地に達している。中国人は小さいころから「表面と中身を一致させること」を受け入れてきた。だから、自分が満足しない場合にも、直接的にそれをいうことが多い。しかし、日本人の場合は、自分が全然満足できていなくても、その場で反対意見を述べることはせずに、表面上ではまず賛成し、あとから角が立たない方法で問題を解決する。この点において、外国人は日本人がうそつきであると感じることがある。しかし、集団内においてはそれが暗黙の礼儀であり、規範であり、ある一定の程度で人間関係の調和や雰囲気を保つことに役立っているのは確かなことである。
面子を重んじすぎることでマイナスの作用もある。上に述べたようなやり方には、外国人に誤解を与えやすく、本当に伝えたいことが伝わりにくく、外国人の気分を害し、理解できず、お互いの相互理解を妨げる消極的な要素がある。
これについて松本一男は、中国人は面子を守るために誤りに固執し、実際の利益の犠牲を引き換えにして、表面上の面子を得る。中国人からすると、どのような問題であれ、面子を保つことが一番大事なのであり、問題の原因や対策は二の次である。
このような「面子」の過度の意識は不活性的であり、調和に悪影響を与え、さらには私たちの進歩の障害になってしまうので、面子にこだわらず、中身によりこだわることが、中国とどの中国人にとってもとても大切な課題である。
【感想】
「面子」をテーマに書かれた論文だった!しかも、日本の面子観と比較していたので、すごく自分の研究とぴったりの論文でした。
面子には、自分をよりよく見せようとする「面子尊厳」と、自分が持っている能力を最大限に生かしたい、また他人が持っている能力を最大限に認めたい。という「人格尊厳」があると思う。
「中身が伴っている面子」と、「中身が伴っていない面子」の二種類があり、それがはっきりと分けられず、混在している。という風にとらえるようになりました。
「中身が伴わない面子」を重んじるとは、「虚栄心、見栄」として捉えられ、最終的には自分にも多大な物的・精神的負担を担わせてくる。「中身が伴う面子」を重んじるとは、日本語の「気」とも重なる部分があり、他者への配慮であり、他社の存在を認め、受け入れている。ということの意思表示である。この面子を自分に対しても、他者に対してもうまく使いこなせる人は、人間関係を潤滑に行うことができ、人脈も広げられることができる。
どちらにせよ、中国人の「面子文化」の根源には、より良い生活をしたい。というハングリー精神があるのであって、「中身の伴わない面子」も、努力によって「中身の伴う面子」に変えることができ、多くの人はそれをするつもりで現段階ではできないこともできると言い、一部の人は本当に実現し、一部の人はできずに、「面子を失う」のだと思いました。
そこに見えてくるのは、現代日本に失われつつある、上昇志向なのだと思います。
そして、日本において経済水準が高く、「一億総中流社会」といわれたほど平等指向が強かったから、財力による「面子格差」はなかったのですが、今「格差社会」が叫ばれ、今後もその差が狭まる可能性が少ない状態が続けば、また少し意識が少し変わってくるのではないでしょうか。
こうやって考えると、「面子文化」は、「実力主義」的な一面(その人の持つ偽りのない能力や財力を重視する)を持ちつつ、その人が生まれながらにして持つ親戚関係やそれによる財力、作り上げてきた人脈なども、その「面子」の価値を構成する一部である、という点で、完全な「実力主義」とはまた少し違う特徴を持つ関係であると思いました。
しかし、「空気」がその人の「キャラ」を形成しがちである日本の文化に比べると、グループの中でグループの構成員に対してある「キャラ」を共同概念として抱く、というよりも、個人個人が他者を査定・評価する、という要素が強いように思いました。そして、日本の「キャラ」が固定的・普遍的傾向が強いのに対して、中国の自我意識は可変的、とくに上昇指向的であると言えます。
そしてなにより思うことは、これらの面子の概念や捉え方が時代背景・経済状況によって大きく変わるという点です。きっと、僕が卒論を完成させたとしても、そこから10年、20年たてば、世界は大きく変わり、日本の「空気」に対するとらえ方も、中国の「面子」に対するとらえ方も、付き合い方も、少しずつ変わってくるのではないのかと思いました。
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